過剰品質の考え方

DRAM 開発の思い出の続きを書こうかと思ったのですが、
日本の半導体凋落の原因について興味がある人が多いようでして・・・


今回は良く指摘される「過剰品質問題」について
出来るだけ分かりやすく書いてみることにします。

半導体技術者にとっては常識的な事ばかりだと思うのです
問題を整理する意味でも書く意義があるのかなと判断

これはあくまでも予想なので不確かではあるのですが、
日本のメーカーがマイクロンや三星で作られた DRAM
自社製品の特性比較を実際に行ったとのではないかと思うのです。

で、その時に特性そのものや信頼性面において、
日本勢がかなりの部分で 「勝っていたと判断」 したのだと思います。


ただ、その考え方というのが問題なのかもしれません。

分かりやすく単純化して書きますが、製品の特性保証範囲として
以下のように条件があるとします。

         最小  標準  最大
供給電圧:  3.0V  3.3V  3.6V
動作温度:  -25℃  25℃  105℃

この時、半導体チップにとって一番厳しい条件
つまり、動作速度が遅くなり、問題発生につながる条件は
供給電圧が最小=3.0V かつ 動作温度が最大=105℃ の時になります。
(最速動作時にもちろん問題はありますが、あくまでも一例として)


とにかく日本のメーカーでは、ワースト条件、つまり一番厳しい条件において、
どこまでマージンがあるかというのを重要視し、マージンがあればあるほど
評価されるといった風潮があったと思います。


本来ならば、製品実装時を想定して
スペックを満たしていれば良いはずなんですが、
過剰なマージンが評価され、そのマージンを稼ぐための
設計検証やプロセス技術で追い込むといった事が多々あったと思われます。


日本のメーカーが技術で勝っていると判断したのは、実は保障範囲ではなく、
最小供給電圧より下の評価でのマージンだったのではないかと思います。

  あくまでも予想:三星製のは 2.9V 以下になると問題が起きるが
            うちのは 2.7V でも問題なく動作出来る!

  といったような感じかなと。。。

 実際、設計に携わった製品において、口が酸っぱくなるほど
 「で、マージンはどれくらいあるの?」って言われましたし、
 設計側としては、トラブル回避のため出来るだけマージンは欲しいんですよね・・・

まぁ、一言で言うと「過剰マージン設計至上主義」が原因だと思うのですが、
お客さんからも、保障範囲よりも広い条件での要求が多かったのも
事実だったと思いますし、それに応えた日本のメーカ側も頑張ったとは思うのですが・

やはり、バランスというか、そもそもスペックというものをどう考えるかの部分と
なにを持って評価するといった感じなのですかね。
それと技術者はコストについて当然考えますが、
優先順位は当然 「特性>コスト」 になりがちというか、私もそうなります。


最終的に誰かが判断しなければいけない問題ですし
経営陣がきちんと取り組んでいなかったというのが結論になるのかなと・・・

DRAM 開発の思い出

書き始めたばかりのブログにも関わらず、
何人かに見て頂け、おまけにはてなスターまでつけてもらったので
調子に乗って今日も更新いたします。

さて、前回の続きとなりますが、
湯之上さんが今後「日本半導体の凋落」をどのように綴っていくのか
私自身も楽しみにしております。

 半ば自虐的ではあるんですがね

基本的にその連載に合わせてその当時を振り返り
更新していこうかと考えているのですが、
湯之上さんが在籍していた日立製作所の方々と一緒に
DRAM の仕事をしていたことがあるので、
その思い出話などを書いてみます。

もう、15年以上も前の話で記憶もあやふやなので、
 機密保持契約などでで訴えらないでやってください

1991年にアメリカの大手半導体メーカーであり
ICを発明した会社でも知られる「テキサス・インスツルメンツ」と
日本の代表する大手半導体メーカー「日立製作所」は
64Meg DRAM の協同開発プロジェクトをスタートさせます。

 当時の DRAM市場は 4Meg品が主流だったので、
 2世代後の開発にあたります。

設計を行う場所は、日本TI美浦工場で
日本TI側、日立側からそれぞれ10人程度の設計者が集まり開始。
(ちなみに、エンジニアは全て日本人)

で、この時はまだ私は若造だったのですが、
日立側からの参加者にも色々事情ありそうな事を
だんだんと感じ取っていくことになります。

 まず、本社の日立製作所に所属しているか
 子会社である日立超LSIに所属しているかでの身分の違い。
 次に、所属が中研(中央研究所)なのかデバイス開発センターなのか
 半導体事業センター(日立武蔵)なのかの違い。

 日本の会社には色々な「大人の事情」があるということを
 その時初めて知りました。

開発環境ですが、設計者に一人1台EWS
(エンジニアリング・ワークステーション)支給。
この時の EWS は 今は無き Apollo社のDOMAIN DNシリーズ
(ちなみに、1台400万円〜500万円していたと記憶)

ESW のネットワーク接続はイーサーネットでは無く
ドメインリングというもの。
OS は Appolo Domain O/S というものなのですが、
環境変数1つで、BSD と SYS5 の切り替えが出来ました。

 個人的にはこの Domain OS がかなり好きでした

半導体を設計するためのソフトウェアは全てTI内製のもので
以下のものがメイン

 ○回路図(Schematic)入力
 ○レイアウト入力
 ○回路検証ツール(所謂 Spice)
 ○デザイン検証ツール
 (デザインルールチェック及び Schematic vs レイアウト検証)

設計開発環境は当時の日立を圧倒的に凌駕していたようで
昔からアメリカは開発環境などソフトウェアに強かったようです。

というか、設計開発に対する考え方が
いまだに日本とアメリカでは違うと思うのですよね・・・

日本では設計するためのソフトウェアのライセンス数と
それを実行するための HW は費用対効果を考えて
ぎりぎりの投資を行う。
これは、ある意味当たり前ではあるんですが、
複数のプロジェクトで使用する場合には
HW/SW ともにリソースが足りなくなる場合があります。

一方、TIでは開発期間を短くするために、一人で SW/HW を
同時に複数使うのも当たり前という感覚で。
早く処理出来る HW は取り合いすることはありましたが
SW のライセンス数が足りなくなる状況といのは
めったになかったと記憶しております。

 時間を金で買うという感覚ですかね

で、話は共同プロジェクトに戻りますが、
同じ日本人でありながら、当初、仕事上の会話が思うように
進まないといった多々ありました。

これは、半導体を設計するための、専門用語の呼び方がまったく違い、
言葉の定義・摺り合わせからスタートしたのを記憶しております。

社内独自の呼び方は今でも存在するのでしょうが、
当時の半導体開発の場では、いっそう多かったのですかね?

日本の半導体全盛時代を思い出してみる

JBPressでの以下の記事を読み、刺激を受けてしまったので
私も当時を知る「おっさん半導体技術者」としてだらだら書いてみます。

日本「半導体」の凋落とともに歩んだ技術者人生


そもそも、日本の半導体産業が衰退してしまった事は事実でありますが、
その成功とされる部分の多くは「DRAM」分野の事になるかと思うのですが
いかがでしょうか?

半導体市場全体における DRAM の占める割合は確かに大きいですが、
それ以外の、MPU/MCUDSPといった市場には
元々日本勢はそれほど食い込めていなかったと記憶しております。

 MCU や一部の MPU に関して、日本国内市場では健闘していましたが
 世界的にみるとやはり厳しかったと思うのですよね。

さて、半導体の製造プロセス技術において、
実際日本が進んでいたのか? という部分が一部で争点になったりしていますが
私は進んでいたのは事実だと思います。
特に最小配線幅での加工技術(いわゆるメタル配線)や
DRAMに必須なキャパシター形成技術といった部分では
一歩抜きに出てたと記憶してます。

 トレンチ型がいいのか? いやいや、これからはスタック型がいい! 
 など各社がかなり盛り上がっていていました。

ただ・・・上記の技術はチップ面積削減につながる技術なので
決して悪い方向ではなかったはずですが・・・
そもそもコスト削減が目的なのにもかかわらず
いつのまにかプロセス加工技術競争だけが
白熱していったような気が今ではしてしまいますね・・・

後、よく言われる「過剰品質」問題ですが、
これは日米半導体協定で半ば強制的に外資系(というかアメリカですが)
半導体メーカの製品購入が日本に義務付けられた時、
納入された製品の品質に少なからず問題があり
その影響というのがあるのかなと・・・・
 
また、プロセス技術だけでなく、回路設計技術でも
日本勢はかなり健闘していた思います。

 当時のVLSIシンポジウムでは、日本メーカの発表が
 かなり多くあったはずです。

当時を振り返ると、やはり半導体ビジネスにおいていかに儲けるか? 
と言った発想は少なかったのかな〜と。
というか、考えなくても DRAM だけで 売り上げ及び利益が
伸びていた状態なのでコスト意識とか利益率と言った事が
重要視されていなかったというのが実情だったと思います。

 DRAM市場から撤退する時も、確たるビジョンも無く
 これからは System on Chip(SoC) の時代と各社横並びで・・・

ちなみに、外資ではとにかく「利益率」が重要視され
まずビジネスを検討するときは「利益率 30%」 が
ひとつの判断ということで、最終的にそれ以下になったとしても
最初にこれが見込めない場合には参入しないという判断がされていたと思います。
(当時私が勤めていた会社の話ではあるのですがね)

で、日本が DRAM競争から脱落していった経緯で抑えておかないといけないのは
以下の2点になるのかなと。

○マイクロン・ショック
○韓国・台湾の猛追

 マイクロン社が半導体を製造するのに必要なマスク数と
 製造工程を大幅に見直し、短期間かつ低コストで
 DRAMを製造出来る事を証明し、市場を席巻し始めました。

 →この時、日本勢各社は品質と信頼性が問題があるだろうから
  負けるわけが無いと過信していました・・・

 また、韓国勢が勢いを増した理由として、
 週末出張アルバイト・エンジニアの問題が良くあがりますが
 これは確かにありました・・・
 ただ、三星エンジニアの技術レベルも極めて高く、
 技術吸収力もすごかったのもまた事実。
 また、コスト意識や日本式ビジネスの研究・分析が
 よく出来ていたというのもありました。

 →これに関しても、日本の経営陣はそう簡単に韓国が作れるわけがないと
  過信というか慢心がありましたね・・・

 
当時の日本の半導体を取り巻く環境としては着実にレベルが上がっていて
プロセス技術だけでなく、設計技術も力を付けていった状態ではあったものの、
DRAMで一気に成功しすぎて、その成功体験と製造プロセス技術至上主義神話が
重なってしまったのが不幸の始まりだったのかなと思います。

半導体製造装置では、まだ日本企業で健闘しているところはありますが、
設計するためのソフトウェアがほとんど外国製になっているのが
やはりこの国を現しているのかな〜

 ツール社、ジーダット社、礎DA社など日本で頑張っている
 ベンダーも確かにありますが、やはり正面から戦うのは厳しいかなと。